――「共産主義者通信委員会」の再建のために――
解放派におけるマルクス主義の再生深化の道は何か
                              斎藤 明
<目次>

はじめに
第一章 ヘーゲル弁証法の転倒
一 はじめに
二 三段にわたるヘーゲル批判
三 その一段
四 ヘーゲル左派を超える端緒
五 フォイエルバッハ的宗教批判の国民経済学批判への適用
六 ヘーゲル弁証法の批判的再生=「積極的人間主義」への道
七 フォイエルバッハとマルクスのヘーゲル哲学理解の相違点
八 [歴史的必然性」の概念―『聖家族』」
九 歴史の四つの契機―『ドイツイデオロギー』
十 諸個人の新たな結合
十一現実的歴史把握
十二個の普遍的解放
第二章 抽象作用と政治
一 政治の概念
二 抽象作用
三 特殊のもつ位置とその否定を通しての普遍化
四 レーニンのあやまれるヘーゲル理解
五 階級形成論の原理論の深化を



はじめに

 われわれは、一九六〇年を前後して、潮流としての活動を開始し、@レーニン外部注入論を批判し、A合理化論において、社会的隷属、資本の下への実質的包摂、社会的力に抗する労働者の団結を訴えB階級形成論を明らかにし、社会的政治的階級としての発展の論理をもとに、「行動委員会運動の中からの党建設」を路線とし、C地区協同、コミューン的運動の推進をすすめてきた。それは、レーニン主義とも、宗派主義とも決別した革命的マルクス主義の地平である。

 われわれは、戦略とは、歴史の必然性の認識されたものである、と規定してきた。戦術とは、その意識的実践であると。この意味は、われわれは、目的主義でも理想主義でもないということである。われわれがよって立つ地盤は、現社会の矛盾の人間的否定である。その「人間的」が、理想主義的なのではないか、という意見が必ず生まれる。根源的な本質的な現状の否定の力、その豊かさに規定されているというのが答えになる。すなわち、社会的隷属を超えてゆく実践的な結合の発展の程度においてしか、その内容は築けないということである。したがって、これまでの、われわれもいまだ、大きな限界、制限のなかにあった歴史をもっているということである。しかし、組織建設過程の中で、不十分性を正面から解決できずに、歪んだ傾向を生み出し、その破壊作用は解放派を蝕み、歩みをとめてしまった。しかし、多くの同志が、真の解放派の再興のために闘ってきた。全世界的に階級矛盾が深まり、激的な情勢の変化が予感される今日、反省を纏め上げ、ここだという必要な核心点を共有して組織再建を全国的に推進してゆかなければならないと考える。

 これまでの限界は、端的には、内側から宗派を生み出したことにある。しかも、学生部分のみならず、一部の労働者をも含めての宗派主義の発生である。われわれのレーニン主義批判が、内部において一面的に理解されていた傾向は否めない。スターリン主義批判の前提としてレーニン主義批判を、一歩も二歩も徹底することが必要であるということ、宗派主義とマルクス主義は相容れないということを理論的にも整理することが問われてきた。それは、哲学の止揚としてのヘーゲル批判の地平をどのように確定していたのかという問題とひとつであった。  

宗派主義は、外的な目的が主語で、現実の労働者はその述語とされるという構造をもつ。その目的は、作られた目的であり、想定された空想である。自我の内容を移し変えることによって、主意主義的目的主義が発生する。

資本主義的社会のなかに世俗的に生み出されるエゴイズムそのままに他人と「協同」するとなると、神聖化された外的な目的の担い手として、相互に手段化する以外にない。その担い手の序列が組織となる。そのような、自他ともに手段と化した組織は、必然的に官僚化し、官僚政治を発生させる。なぜなら、担い手が同時に指導部なのであるからだ。外的なものの無理は、姦計を発生させる。主意主義的目的主義は、目的の主観的正当性の名のもとに、諸手段を正当化しようとする。これは堕落の一歩であり、かつ、不可避的一歩となる。  

「スパイ問題」のでっち上げ、内部糾弾の利用(スパイ摘発だとする歪みをもったそれ)、「現在直下の革命闘争」のでっち上げを手段とする、隠された目的としての軍事組織の形成、これらの姦計を駆使しての組織操作が発生した。

この腐敗グループは、組織そのものを外的に制圧するという誤れる行動に出た。そして、組織は破壊作用をうけながら分裂した。

宗派主義は、本来は組織の目的が生み出されるはずの共同性、組織主体は、上から単に働きかける対象としてしかなく、また意見の異なる組織員は屈服させるしかなく、特定の自己意識の多数性への拡大が組織拡大と一つという構造に多かれ少なかれ入る。そうなると、唯一の「正しい目的」の担い手として登場すべく、純化は反対派の排他的殲滅しかなくなる。自分のほうが「唯一の革命そのもの」の担い手であるという主観性は、相手がその反対である以上「反革命」であると一方的に規定して排撃打倒だとなる。

 しかし、なぜ解放派の内部から、このような誤れる宗派主義が発生したのかを根本的に解明し克服するためには、「レーニン主義」が孕む誤りをさらに一段掘り下げることを課題とした。  

それは、スターリン主義批判を徹底するために不可欠であると同時に、解放派におけるマルクス主義理論が孕んできた不十分性を根本的に再整理することの必要性を浮かび上がらせてきたからである。

 このことを整理することは、実は、ヘーゲル批判と、国民経済学批判を通して成立しているマルクス主義の基本的地平を明らかにすることに通じていると考える。それは、同時に、今日のマルクス主義陣営の混乱をも批判的に解明する尺度となるであろう。

 最近になって、「レーニン主義」、とりわけ「社会主義意識の外部からの持込」についての反省を口にする人たちが、「アソシエーション」について多く語っている。そして、初めて知ったかのように「労働者階級の解放は、労働者階級自身の事業である」と謳う。しかし、それらの人々の多くは、レーニン主義のまま、「新たな目的」を掲げて旗を振るだけである。そこからでてくる次の展開は理想主義的人間主義となる。「アソシエーション理論」を、これまでもそうであったのであるが、より一層の理想主義者に変身して、今度はこれだと叫ぶ。再び、善の当為のための理想主義の旗の色が変更されただけのものとなり、単なるこれまでの自分達のマルクス主義の不理解を、今日あわてて言葉として取り戻すということ以外のなにものでもないという傾向がみられるだけである。

 日本のマルクス主義の陣営において、疎外の概念の混乱は、他方の「物象化」または、「物件化」という表現との関係において、顕著に示されている。今日、アソシエーションということをキーワードとして、マルクス主義の「見直し」をおこなうのだとしている潮流、良心的学者が、しかし、なお「物件化」として、歴史認識しようとしていることにおいて、その良心的意義は、再び、労働者階級にとっては、外的な「新しい旗」がまたぞろ登場ということにしかならないということとしてすでに終わろうとしている。

 なぜかというと、世俗的経験的意識には、「地球の周りを太陽がまわり」、理論的意識には「太陽の周りを地球がまわり」、このあやまれる錯認識を、正しい理論で置き換えねばならないということと同じ調子で、「正しい理論」で導くのだと考えているからである。

 「もし、事物の現象形態と本質とが直接一致するならば一切の学問は余計なものであろう。」(マルクス『資本論』)というとき、単に、「存在・本質」の関係として、「物と物との関係として現象する事柄は、実は人間と人間の関係を本質としている」ということを正しく認識するということで終わることでよしとするものではない。『資本論』第三巻第四八章の「三位一体範式」の示すところは、「社会的生産過程の」「秘密」を、すなわち、その物神性をあばき、実践的に否定(止揚)することにある。そして、新たな自分たち自身に基礎をもつ真の認識を生み出す仕方を明らかにすることである。そうでなければ、「現社会の正しい見方」と、「主観的共同認識である」ということを指摘するに終わる。

 「意識している生命活動は、動物的な生命活動から直接に人間を区別する。まさにこのことによってのみ、人間は一つの類的存在なのである。すなわち、彼自身の生活が彼にとって対象なのである。疎外された労働はこの関係を、人間が意識している存在であるからこそ、人間は彼の生命活動、彼の本質を、たんに彼の生存のための一手段とならせるというふうに、逆転させるのである。」(『経哲』)

 〈意識的存在であるがゆえに、逆転させる〉このことこそが問題の焦点なのだ。「物象化」、「物件化」ということのもとに捉えられなければならないのは、この、逆転させる行為の否定なのである。物神性を、「物象化」と「物神性」というかたちで、〈と〉で結ぶやりかたは、実は、資本主義生産様式のもとの社会的生産過程の秘密を捉えていない、と言わざるをえない。

 「労働を、労賃獲得の手段とする」現代の賃労働の奴隷的性格の否定、そこにこそ、その否定の中から、全面的に発達していく個人の協同が展望される。

 確かに、ヘーゲル左派時代のマルクスは、〈類的人間存在と現実的個人〉に立脚することで、一般的抽象的に、「疎外された労働」を語っている。『ドイツイデオロギー』以降、歴史の段階的発展の本質的力を明らかにすることにより、(後に簡潔にまとめる)現実的具体的に「疎外された労働」を掴んでいると考える。そして、このことを、国民経済学批判として貫徹していったのである。したがって、本来の労働が賃労働という奴隷的性格に「逆転」していることの否定において、人間の現実的普遍的全面的解放が展望されるのである。それは、考えられた理想ではなく、歴史的必然性において明らかにされるものである。

 われわれは、これまでマルクス主義の原理的反省としてはスターリン主義批判を、レーニン主義批判に返し、さらに宗派主義批判に掘り下げてきた。今日、さらにこれを一段深める必要がある。観念論との、また、空想的社会主義との根本的決別の不十分性を見極め、真に克服することが問われ続けてきたからである。そのために、観念論との境界線がいかなるものなのかを再度はっきりさせる作業が不可欠と考える。

課題としてあげるならば次のようになる。

 その一は、ヘーゲル批判、国民経済学批判の地平を端的に掴むこと。

 そして、その二は、歴史の推進力としての「四つの契機」(『ドイツイデオロギー』)を基に、近代社会における疎外が段階的に把握されねばならないこと。

 その三は、真実の普遍性をつかむこと。そこからレーニン外部注入論の原理的批判へ下降し、階級形成論の原理論へと展開すること。

 上記のことを、解放派の反省として整理するならば、つぎのようになる。

 すでに六四年当時、学生戦線のなかから『解放bU』にたいする「批判文章」が提出される。それは、レーニン主義批判の「反批判」という性格にて提起された。当時の論争は、中原一がまとめた、「学生存在論」、および「プロレタリアートの衝撃」、「普遍的共同性」への結合というテーマにおいて一定の整理がなされ、解決したかにみえた。(『中原一著作集』参照)この時点においては、学生の持つ理論性が、外的なものであることが克服される過程が、「衝撃」とされて、内容的に主体化されきっていないという限界をもっていた。それは、中原一のなかでは、「階級的否定」ということに要約される、理論的実践的立場の確立の問題として再整理されていくのであるが、組織全体としては不分明に進んでいった。

 七〇年闘争をくぐり、そのなかから、ふたたび、『解放bU』=「基底還元主義」という批判が提起される。これは、提起者自身が引っ込めてしまったので十分討論されなかったが、その内容的解決は棚上げとなってしまった。しかし、この一石は、浮き足立った一部の活動家にとっては、小ブル急進主義への転落への露払いとして映った。

 これに対する対応は、すでに、解決済みのことであり、単なる理解不足の結果、誤解に基づくところの空転せる批判にすぎないと軽視する姿勢が一方にあり、他方、この誤れる論争提起を踏み台とする形で、学生を中心にレーニン回帰主義が発生したのである。

 なぜ、このようなことになったのか。

 マルクス主義をどのように理解しているのかということを、組織結集の前提とは当然にもしていない。そして、そういうものとしての、厳密な理論的共有と共同理論作業を推進するべき結合体として考えられていた前衛的組織としての「共産主義者通信委員会」が十分活動しきれていない、むしろ、全国的党的組織つくりに集中することが手一杯で休止状態になっていたこと、ここに大きな原因がある。同時に、休止状態を続けざるをえなかったという背景として、我々内部の理論的共有化作業が十分行われてこなかった傾向がある。単に遅れていたということとは違うと言わざるをえない。

 どういうことかというならば、各自それぞれ、マルクス主義に理論的に到達する思想的理論的な回路が異なるのは当然である。すなわち、自分の古い思想、理論、立場の否定が媒介となる。それは、多様である。理論が主体的であるということは、単に、学習して外的に取り込んだ形式的理論でないとすれば、それは、必ず生きた過程をもっている。このことをも対象化したマルクス主義の理論的共有化の作業に失敗してきたということである。それは、マルクス主義が、哲学の止揚の過程を含んだ理論であることとして、その形成過程を対象化することと交差する課題である。

 われわれが、他の党派に対して取ってきた態度とそれは、共通の性格をもつ。外からみると、独特の理論が、不思議な関連で展開されて、理解しにくい、とよく言われて来たのであるが、理論の性格が異なるということである。そのことは、われわれの側からみるならば、ヘーゲル左派の人々とのズレを実感するということになり、彼らの誤解のしかたも、不理解のしかたも、その原因もわかっていた。しかし、わかりやすく丁寧に論争をおこない、批判を展開することは十分おこなわなかった。その余裕がなかった。

 振り返って、そのことを我々のなかにおいてみるならば、反戦青年委員会、全共闘運動の当時、多くのメンバーが他潮流から我々のもとに結集してきた。その多くは観念論的イデオロギーの影響を強く受けていて、そのイデオロギーを下敷きに解放派の理論を理解しようとすると、全部が曇ってしまうことになる。部分的に摘み食いをして、繋いでいるうちは大した問題とは自覚されないし、また表面化しない。しかし、組織的進退、すなわち、各人の実存にかかわる事態に直面するや、不理解は、大きな問題となる。

 厳密な意味での、思想の共有は、団結の質を開明的に自己把握するために必要である。悟性認識から概念的把握に深める。すなわち、真理を主体的に明らかにするという探求の理論作業が共有されるためには、あまりにも思想的共有が不足していた。

 たしかに、組織の理論的作業が、組織の急速な広がりにたいして、十分に間に合っていなかった。だが、それだけではない。問題が発生した折々に、そう、あらかじめ道の角々を想定して理論を整備するなどということはできないのみならず、問題解決の共通の意識性の中に理論的整理は生かされなければならないのであるから、どのように解決的であったのかということが解明されねばならない。別の言い方をするならば、どの程度誤解の余地をもっていたのか、どの程度不理解を発生させる原因を理論自体がもっていたのかを再検討する必要がある。

 『解放bU』以来、レーニンの「社会主義的意識の外部からの持込」批判の徹底、宗派批判の徹底、そこに革命的マルクス主義の再生をかけたのであるが、しかし、労働者運動の推進と、党派形成のための努力とが、乖離してしまった原因を今一度明らかにし、レーニン主義との決定的決別を行わねばならない。

 スターリン主義批判の徹底という課題は、ソ連圏の崩壊以降の共産主義運動の前進にとって、深刻で切実な課題である。特に、スターリン主義批判を組織論にまで貫徹して展開しえないならば、スターリン主義批判は単なる道徳的態度表明にすぎなくなる。「前衛党組織論批判」の地平が、再度鮮明にされる必要がある。

そして、さらには「史的唯物論」の内容において、本質的に裏打ちしなければならない。このレーニン主義との根本的決別がないならば、一部にみられるような、良心的新左翼諸派、学者グループが、たとえレーニン主義批判を口にしても、そのような意義を付与して、「アソシエーション理論」を対置したとしても、問題をずらしていくだけになる。

 「アソシエーション理論」は、それだけが、分離されると、そこに含まれる革命的な積極的意義が半減する。なぜ、それが労働者の解放の指針なのか、階級形成との関連で明示されないとすると、それは、再び、考えられ考案された理想、道徳的要請となってしまうからである。

 われわれ解放派が抱えた問題を解明し、克服し、道筋をはっきりとさせることは、レーニン主義批判を鮮明にして進んでゆくなら必ずと言っていいほど直面し、突き抜けなければならない課題の一つであるとおもわれるがゆえに、すべての心ある人々にとってもあまねく重要な事柄であると考えている。

 レーニンの「外部注入論」批判を、内容的に把握できずに、一面的に理解して、「理論軽視」の傾向において肯定し、さらにその理解が一面性でしかないがゆえに、裏返してまたそれを否定して、こんどはひどい邪悪な「外部注入論」に転落するという事態が内部から発生したのだということ、このように否定的事態の性格を端的に掴まねばならない。

従って、「外部注入論批判」の再度の深化から再度開始する必要がある。テーマとしては、「レーニン外部注入論批判」の根幹をなし、より本質的問題でもある「存在と意識の二元論批判」の内容的深化である。

 『何をなすべきか』における、社会民主主義的意識と労働者の経済主義的意識、組合的意識との区別から、前衛党をとする導き方を形態的につかむとしたら、共産主義的前衛を労働者の党と分離することの意味が不明となる。一方では自然発生性に頼って、しかし、他方では確固たる党的全体性をもって活動する人間が現れないとその困難性を嘆くことから、いきなりレーニン的前衛党に舞い戻るということはたやすく想像できることである。

 レーニンの理論こそが、スターリン主義の発生の根拠なのだということ、その哲学・組織論・戦略論の体系として、非マルクス主義的であるということが問題なのである。『何をなすべきか』の基には、そのあとで記述されたのであるが、『哲学ノート』に示される理論的態度がある。ヘーゲル批判の誤り(『哲学ノート』における転倒の仕方の誤り)と「外部注入論」は、通底的である。その反面が、生産協同組合を欠落させたコミューン論へと展開されるのである。

 「存在と意識の二元論」の批判というテーマ設定は、このような課題を具体的に内容的に掘り下げ、すなわち本質的に解明するために導き出されたものである。ここに照らして、その全関連が、全構造が開かれ明らかとなる。

 新左翼のなかでも、よくレーニンの理論は時代のものである、として、あいまいな肯定とあいまいな割引で、だらしなく利用するという姿勢がみられたことがあった。理論的内容に明確な誤りがあり、もはや不十分性や時代的制約などという種類の事柄ではない性格の欠陥がある。そのゆがみの醜い結果がスターリン主義として結果するのであり、その結果からの反省を部分的なものにしないで、その原因に迫って解決するということが、反スターリン主義を課題とした全潮流の共通の課題であったはずである。そういうものとして、ソ連邦の崩壊以降、いまさらのように「レーニン主義批判」を口にする人々にたいしても、旧態依然たる「レーニン主義者」にたいしても、われわれが先行的に経験してきた過程そのものを明示することは、大切なことであると考えている。

 われわれが四〇年前に、ロシア革命をその意義と限界としてつかみ、レーニン主義批判を開始した当時、日本の新旧左翼は、多かれ少なかれロシア革命コンプレックスのなかに、真実を見失っていた。まして、レーニン主義批判がなぜ必要なのかも理解できずにレーニンの限界の枠内にとどまり続けた。ひとり、われわれのみが、マルクス主義の復活をかけて戦いつづけてきた。そして、われわれ内部においても、ふたたび「レーニン主義の再評価」などと、一部小ブル急進主義的傾向が発生した。しかし、それは共産主義的労働者の大量の形成ということに失敗した結果の裏返しでもあったのだ。主意主義的目的主義に転落し、かつ、「隠された目的」を背後に持った戦略・戦術を「主体形成主義」的に展開するという独特の小ブル急進主義党派性が生み出された。「革命の現在性」を階級形成の質として獲得するのではなく、主観的な軍事的闘争形態としてつくり、しかし、それとして真剣ではなく、それを手段とする主体形成=「自称革命家」の形成――「実戦の中からの党」路線とした。革マルが「隠された目的」への諸手段としての大衆運動という主体形成主義であるのと裏返しての、「観念的哲学の中からの党」に対して、「空想的実戦の中からの党」に転落してしまったのであった。それは、また、われわれの階級形成の遅れの疎外された欠陥として派生したものでもある。特に中央指導部中枢に発生した一部の腐敗、「他の手段もってする党内闘争(スパイ説を捏造しての同志の排除)」の持込を十分に克服できずに組織を混乱させてしまったという痛苦な反省は、エゴイズムを真に超えた新たな活動を再生するという課題をつきつけてきたのである。わが組織は下から崩壊したのではない。中央から解体したのである。したがって、再生の困難さは多くの同志にとって手のつかない遠い課題のように受け止められてきた。手順を追って、新たに生成する気概でこれまでの成果を一歩深化させて、多くの同志の叡智を結合し前進したい。

解放派の思想的深化再生を推し進めることは、われわれ自分自身の人間的解放のためにも、全世界の変革のためにも欠くべからざる共同の事業であると考える。これまでの多くの同志の営為によって築き上げられてきた地平をさらに前進させよう。再度共産主義的結合を開始しよう。

 心ある同志に「共産主義者通信員会」の再建をよびかける。

第一章 ヘーゲル弁証法の転倒

一 はじめに

 マルクスのヘーゲル批判から、ヘーゲルを考えるかたちで入った人々のなかには、本当のヘーゲルを理解しないという傾向があると、加藤尚武は繰り返し語っている。

 ヘーゲルのマルクス的転倒という場合、まず、ヘーゲルそのものがつかまれていないで、すなわち、存在‐本質‐概念と展開される論理を、本質論レベルで理解し、それを、フォイエルバッハ次元に止めたマルクス主義の理解の地平で、「現象と本質」の正しい認識のための学としてマルクス主義を留めてしまうような理解で、「ヘーゲルのマルクス的転倒」が語られている傾向がある。

 それは、まして、「ヘーゲル概念のレーニン的転倒」などと、存在論次元に後戻りながら、「物質」という新たな「実体」を作り出し、「人間の脳」の「自覚」などと、主意主義的汎神論にすぎないものに改作してしまうような場合には特に問題となる。注意すべきは、ヘーゲルの理論は、プラトン的な、イデー顕現論でもなく、スピノザ的な実体の汎神論でもない。

 ヘーゲルは、神学を批判し、再び宗教を再興した。ヘーゲルの人間の回復の論理は、共和制社会と人間的道徳に発する宗教の統一に求められた。人間の不幸の原因を探求して、各段階と過程を通して遂に到達する絶対的精神は、「自然‐類‐人間」すなわち「スピノザ的実体、フィヒテ的自己意識、ヘーゲル的主体」の統一の地平である。ヘーゲルの哲学は、主要には、カントの批判哲学が、神的なものを彼岸化し、此岸と分離したのに対して、自然と精神の世界に神的なものを統一するという観点から、人間性の回復・絶対的なものの実現をめざした論理を明らかにすることにあった。

 したがって、ヘーゲルの批判的継承とはなにか、ということが、ヘーゲルの否定と同時に明らかにされる必要がある。そうでない場合、ほとんど、否定といいながら、一面的にヘーゲルそのままであったり、またはカントへの後退となっている。

二 三段にわたるヘーゲル批判

 「ヘーゲル哲学のマルクス的転倒」というテーマにおいて整理する。

 結論から述べるならば、マルクスのヘーゲル批判は、三段に展開されている。

 その一は、フォイエルバッハ的な〈主述の転倒〉批判である。

 その二は、現実的人間の概念を〈社会的関係〉と〈労働〉を〈歴史過程〉の中に捉えることにより、ヘーゲルの弁証法を、人間回復の歴史的弁証法として批判的に継承することにある。 

その三は、人間性の回復の内容として、個人と類的全体性の統一ということの内容を、一方における人間の、商品経済社会の中における個別化の進行過程と、資本主義的生産の全面的発展の性格との否定的統一として、歴史の必然的過程として明示することにおいて、「個人と共同体の統一のジレンマ」として現れるヘーゲル哲学の厚い壁、(ヘーゲル左派をのたうちさせた最後の難関)を打ち砕いたことにある。

 この一から、二への移行は、認識の主体を、国民経済学批判(内容的に政治経済批判)をとおして、新たな現秩序に含まれつつ、それからはみだすところのあらたな個々人の結合、結合の中の個人、におくことにより、それを〈われわれ〉とし、主体としたところの認識行為としての理論活動として、理論を展開するという地平によって哲学を超えることが可能となっている。そのことにより、一を基礎として、土台として、すなわち主客の関係を、「人間の類的本質と神」の関係として、宗教における人間の疎外を解明、批判する視点から、歴史の各段階に制約され規定された、労働する個々人とその個々人が形成する社会的関係との、その物化された諸関係との疎外された関係の把握に発展させられている。ここでいう疎外には、広さと深さの変様が含まれる。

 さらに、二から三への移行は、ヘーゲル左派の哲学論争が、ヘーゲル哲学の枠内の泥試合となり、そのことにより、哲学が止揚されずに捨てられること、それは同時に、〈共産主義〉をも、再度ユートピア主義として、掲げられた理想としてしまうことから共産主義の旗を救い出す根拠の見極めを意味する。賃労働と資本の関係そのものを、両極ながら廃棄することこそが根本であること。この解明を基礎にすえて、共同体と個人の関係の歴史的変様を、生産関係を軸に捉え返すことによりその現実的統一の道を明らかにしたのである。

三 その一段

 マルクスは、『ヘーゲル国法論の批判』において、次のように「転倒」を批判する。

 第二七九節について、以下のように、主述の転倒と述語の自立化について展開する。

 「もしもヘーゲルが国家の土台としての現実的な諸主体から発足していたとするならば、彼は摩訶不思議にも国家がみずからを主体化するようなことをさせる必要はなかったであろう。『ところで主体性はその真のあり方においてはただ主体としてのみあるのであり、人格性はただ人としてのみある』とヘーゲルはいう。これもまた一つのまやかしである。主体性は主体の一つの規定であり、人格性は人の一つの規定である。ところが、これらの規定をそれらの規定の主体の述語と解するかわりに、ヘーゲルは述語を自立させ、そしてこれらの述語が後で摩訶不思議にも化してそれらの主体となるようなことをさせるのである。」

 さらにつづけて、ヘーゲルの主述の転倒、分離して客体化し、自立化させ、そして現実的な主体が結果とし現れるように展開すると分析する。

 「述語の現存は主体であり、したがって主体は主体性等々の現存である。ヘーゲルは述語、客体を自立させるが、しかし自立させるといってもそれは、それらの現実的な自立性、それらの主体からきりはなして自立させるのである。そうした後では、現実的な主体は結果として出てきたもののように見えるのであるが、じつは反対に現実的な主体から発足してこの主体の客体化を考察すべきなのである。だから、現実的な主体になるのが神秘的な実体の一つの契機として、あらわれる。」

 ヘーゲルのこの主客の関係は、外化とその止揚をくぐりながら、有限性を克服して、ついには、主客の「根源的統一」に到る(回帰する)過程として、展開されるものである。この根源的統一が、理念なのであるから、ヘーゲル的には、人間の精神と神との二元論(たとえばカント)を克服するものとしての、自分自身の過程を持った絶対精神、理念として、思弁的な動的な「一元論」なのであるが(もっともこれらすべてが観念の世界のことなのであるが)、ここではマルクスは、現実に存在する有限なもの、規定されてあるものと、無限なものとの逆転について批判している。

 つづけて、「ヘーゲルは、実在的なエンス(Ens)(=存在するもの)(ヒュポケイメノン、主体)から発足するかわりに、普遍的規定の諸述語から発足するのであるが、それでもどうしてもこの規定の担い手というものが存在しなければならないからこそ、神秘的な理念がこの担い手となるのである。これは、二元論であって、ヘーゲルは普遍的なものを現実的に有限的なもの、すなわち現存するもの、規定されてあるもの、の現実的本質と観ること、換言すれば、現実的なエンスを無限なものの真の主体と観ることをしないのである。」

 フォイエルバッハのヘーゲル批判は、主要に、主体と客体との、主語と述語の転倒という点に絞られ、「神の意識は、類の意識に他ならない」(『キリスト教の本質』)として、ヘーゲルの神的実体を、外部に移された類的本質であると批判した。

 マルクスは、ここでは、フォイエルバッハのヘーゲル批判をベースに、ヘーゲルを批判していると言えるのだが、フォイエルバッハは、みずからの「宗教哲学」を、ヘーゲル哲学とくに宗教哲学の批判を通して展開した。すなわち、宗教、神学批判という、ひとつの限定において主客の転倒を示したのである。

 『将来の哲学の根本命題』において、ヘーゲル哲学の根幹にせまり、「ヘーゲル哲学は、転倒せる―神学的観念論である。」として、

 「スピノザの哲学が、神学的唯物論であるのにたいして、へーゲル哲学は転倒せる―神学的観念論である。それは、自我の本質を自我から切り離されたものとして自我の外におき、実体、神として対象化した。だが、スピノザが物質をそうしたように、自我を神秘的実体の属性ないし形式としたことによって、再び―したがって間接的に転倒して形で―自我の神性を主張した。神についての人間の意識は神の自己意識だというわけである。すなわち、本質は神に属し、知は人間に属するのである。だが、神の本質は、ヘーゲルにおいては、実際には思惟の本質であり、自我、思惟するものを捨象した思惟に他ならない。」

 そして、この批判は、「新しい哲学」として次の三点を強調する。

 1、ヘーゲル哲学の概念的把握の方法については近代哲学一般の真理である。

 2、経験論と観念論の統一。

ただし、「人間と人間との共同性が、真理と普遍性の第一の原理であり、基準である。」

 3、「新しい哲学は人間の基盤としての自然を含めて、人間を哲学の唯一で普遍的かつ最高の対象とするものである。」

 ヘーゲル左派の論争は、このフォィエルバッハの「主客の転倒」によって提起された、神に代る「人間の本質」「類的人間」をめぐる。

 この、「類的人間」は現実的人間といわれながら、再び抽象ではないのか、言い換えられた神秘的実体となってはいないか、このように問題を立てて批判をしたのはブルーノ・バウアーである。「類がいつか現実のものとなり、フォイエルバッハの類的人間が誰か或る個人のうちで存在するに到るとすれば、最後の審判の日、すなわち人類の完成と週終末があらわれていることにとなろう。」(『ルートヴィヒ・フォイエルバッハの特性描写』ブルーノ・バウアー)

 「フォイエルバッハは、述語を理念的なものとして存続させている―つまり、個体的人間のなかでは『不完全』にすぎず、『類の規模で』ようやく完全になる類の本質規定性として、『完全なる人間の本質完全性』として、ゆえに個体的人間にとって理念的なものとして存続させている。」(マックス・シュテルナー)

 「類的人間が現実のものとなるのは、すべての人間が自己を淘汰し、能力を発揮できるような社会、すなわちそこですべての人間が、自己を確証できるような社会においてのみであるからだ。」(モーゼス・ヘス)

 これに対して、フォイエルバッハは、「……フォイエルバッハは、唯物論者でも観念論者でも同一哲学者でもないのである。では一体何か。彼は、思想に関しては彼が行為からしてそれであるところのものであり、精神においては彼が、肉体においてそれであるところのものであり、本質においては彼が感官においてそうであるところのものであり―人間である。あるいはむしろ、フォイエルバッハは、人間の本質を共同性の中にのみ置くのであるから、―共同人〔間〕、コミュニスト〔共産主義者〕と言った方がよい。」と反論する。

 フォイエルバッハは、その哲学の性格を、ヘーゲルの思弁哲学からカントの批判哲学にもどしつつ、神的な物を彼岸化して、認識不可能としながら、再び、可能であるとするならば、このように考えるならば合理的に説明がつく、または、道徳的要請として、神的なものを復活させるという点を取り除き、「表象が人間と対象との中間にある」カント哲学と、「存在を自らの中に有する理念、すなわち対象として思惟された表象」をもつヘーゲル哲学にたいして「最後にわたしの自我―表象を通じてでなく、理念を通じてでなしの、現実の直観。」が自分の位置関係であるとする。(「ヘーゲル哲学の批判」)さらには、「カント哲学が、その思想を―すくなくとも具体的効程において―結んでいるところの事柄を以って、私の思惟が始まる。」(『遺されたる箴言』)としている。もっとも、フォイエルバッハが、観念論を批判するに弁証法をも捨てたという見解には組しない。しかし、ヘーゲル弁証法を止揚するという視座、姿勢は無かったと断言することができる。

 マルクスのヘーゲル哲学にたいする姿勢とは大きな隔たりがあるのであって、単に「フォイエルバッハ・テーゼ」に要約された結論のみならず、内容的に、マルクスが、このようなフォイエルバッハにたいして、どのような位置関係にあるのかを丁寧に分析する必要がある。そのことは、ヘスにたいする関係についての評価にも関係する。これまでのヘーゲル左派の論争が、「市民社会」の立場である、とマルクスが批判した所以のところが明示されねばならない。すなわち、市民社会そのものの分裂にまで突入することで、ヘーゲル左派論争をこえていくのであるが、その理論的武器は、フォイエルバッハに基礎付けられた、ヘーゲル弁証法の批判的適用にあったのである。

四 ヘーゲル左派を超える端緒

 このような、ヘーゲル左派の論争の限界の突破口は、すでに、マルクスの『ユダヤ人問題によせて』(一八四三年末秋)から、『ヘーゲル法哲学批判序説』(一八四三年末〜四四年一月に執筆)において築かれていると言える。

 その一つは、宗教批判を土台として、現実の地上の批判へ、ということであり、その一つは、この「社会が転倒した世界」であり、「人間の世界」を、「諸関係」として理解し、この「諸関係」をくつがえすことであるとし、ここにおいて「個別的人間のままでありながら、その経験的な生活においてその個人的な労働において、その個人的な関係において、類的存在となったときにはじめて、つまり人間が自分の「固有の力」を社会的な力として認識し組織し、したがって社会的な力をもはや政治的な力の形で自分から切りはなさいときはじめて、そのときにはじめて、人間的解放は完成されたことになるのである。」(『ユダヤ人問題によせて』)個人と類の関係が、関係の質として掴まえられている。その一つは、哲学の止揚は、プロレタリアートの階級への形成と結びつかねばならないという観点である。これは、認識活動の社会的立場、認識主体の社会性をあきらかにするものである。

 マルクスは、国家、市民社会のへ批判、政治批判からさらに、国民経済学批判を媒介しながら、ヘーゲル左派の論争を、ブルジョア市民社会の上に成立している論争であり、この市民社会が、転倒した、疎外された社会であることを転覆することが実践的問題であると、哲学を超えて、実践的理論的姿勢を強める。

 宗教批判から政治社会批判へ、この道筋は宗教批判を前提にしての社会批判として貫かれる。そこから逆にヘーゲル批判の深化の課題が、ヘーゲル弁証法の批判的継承の課題として浮かんでくるのである。

 『ユダヤ人問題によせて』において、宗教的疎外と区別された社会の疎外を論じる。

 「人間が、宗教にとらわれているかぎり、自分の本質をある外部の幻想的な存在とするよりほかには、それを対象化できないように、人間は、利己的欲望の支配下では、自分の生産物および活動をある外部の存在の支配下において、それらに外部の存在―貨幣―の意味をあたえることによってはじめて、実践的に活動し、実践的に商品をつくりだすことができるのである。」

 「貨幣は、その前には他のどんな神の存在をもゆるさないよう嫉妬ぶかいイスラエルの神である。貨幣は人間のいっさいの神をいやしめ―それを商品にかえる。貨幣はあらゆるものの一般的な、自立的なものとして構成された価値である。だからそれは世界全体から、人間界からも自然からも、それに固有の価値をうばってしまった。貨幣は、人間の労働と存在とが人間から疎外されたものであって、この疎外されたものが人間を支配し、人間はこれを礼拝するのである。」

 このセンテンスに先立って、マルクスの理論的立場を簡潔に次のように展開する。

 「われわれにとって宗教は、もはや現世的偏狭の根拠とは考えられず、ただそれの現象であると考えられるにすぎない。だからわれわれは、自由な公民の宗教的な偏見を、彼らの現世的な偏見から説明する。われわれは、自由な公民が自分たちの現世の障壁を除くために、自分たちの宗教的な偏狭をすてなければならないとは主張しない。彼らは現世の障壁を除くやいなや宗教的偏狭をもすてると主張するのである。われわれは現世の問題を神学の問題に移すのではない神学の問題を現世の問題にうつすのである。」このように、天上の問題の解決を地上の問題の解決にうつすとして、次に「歴史」にうつる。

 「これまで、歴史はあまりにも長いあいだ迷信に解消され説明されてきたが、いまやわれわれは迷信を歴史に解消する。」

 歴史過程の中に本質を捉えるという視点が登場するのである。この時点において、すでに、フォイエルバッハ的な、静止した一般性としての「類」と、抽象的な人間個体についての哲学の立場と決別しつつあるとつかまねばならない。

 この姿勢は『ヘーゲル法哲学批判序説』では、簡潔につぎのように述べられる。

 「それゆえ、真理の彼岸が消えうせた以上、此岸の真理をうちたてることが、歴史の課題である。人間の自己疎外の神聖な姿が仮面をはがれた以上、神聖でない姿での自己疎外の仮面をはぐことが、当面、歴史に奉仕する哲学の課題である。天井の批判は、こうして地上の批判にかわり、宗教の批判は法の批判に、神学の批判は、政治の批判にかわる。」 

 『ユダヤ人問題によせて』のなかで、簡単で荒っぽい素描ではあるが、人間の解放を歴史的に掴む展開として、ブルジョア政治革命から、市民社会の中の革命へ踏み込み以下のように展開する。

 「完成した政治国家は、その本質上、人間の類的生活であって、彼の物質的生活に対立している。この利己的な生活のいっさいの諸前提は、国家の領域の外に、市民社会の中に、しかも市民社会の特性として存続している。政治国家が真に発達をとげたところでは、人間は、思考や意識においてばかりでなく、現実において、生活において、天上と地上との二重の生活を営む。すなわち、一つは政治共同体における生活であり、そのなかで人間は自分で自分を共同的存在だとおもっている。もう一つは市民社会における生活であって、そのなかでは人間は私人として活動し、他人を手段とみなし、自分自身をも手段にまで下落させて、ほかの勢力の玩弄物となっている。」

 このように、市民社会の疎外状況を掴み、「政治的解放は、同時に、人民から疎隔された国家制度が、つまり支配の権力が、よってたつところの、古い社会の解体でもある。政治革命は、市民社会の革命である。古い社会の性格は何であったか?それは、ひとことであらわすことができる。すなわち封建制度である。古い市民社会は政治的性格を直接的なかたちでもっていた。すなわち、たとえば財産とか家族とか労働の様式とかのような、市民生活の諸要素は、領主権、身分、職業団体といって形で国家生活の要素にまで高められていた。」

 「……こうした革命が、共同体からの人民の分離の表現であったいっさいの身分、職業団体、同職組合、特権を粉砕したのは必然的であった。政治革命は、これによって、市民社会の政治的性格を揚棄した。それは市民社会をその単純な構成部分に、つまり一方では個々人に、他方では、これらの個々人の生活内容である市民状況を形成する物質的および精神的要素に、粉砕した。」

 「封建社会は、その基礎へ、つまり人間へ、解消された。しかしそれは、実際にその基礎となっていたままの人間、利己的な人間への解消であった。」

 「政治革命は、市民社会をその構成部分に解消するが、これらの構成部分そのものを革命批判することはない。」

 「あらゆる解放は、人間の世界を、諸関係を、人間そのものへ復帰させることである。

 政治的解放は、一方では市民社会の成員への、利己的な独立した個人への、他方では公民への、法人への人間の還元である。

 現実の個別的な人間が、抽象的な公民を自分のうちにとりもどし、個別的人間のままでありながら、その経験的な生活において、その個人的な労働において、その個人的な関係において、類的存在となったときはじめて、つまり人間が『固有の力』(註 ルソー『社会契約論』)を社会的な力として認識し組織し、したがって社会的な力を政治的な力の形で自分から切り離さないときにはじめて、そのときにはじめて、人間解放は完成されることになるのである。」

 引用が長くなったが、このように、歴史過程のなかから人間解放の方策を展開する。ここで「諸関係」を変革するのだということが強調される。これは、さらに、『ヘーゲル法哲学批判序説』において、「批判の武器……」の次の文章において、展開される。

 「ところで、人間にとっての根本は、人間そのものである。ドイツの理論がラディカルであること、したがってそれが実践的エネルギーをもつことの明らかな証拠は、それが宗教の決定的な積極的な揚棄から出発したことである。宗教の批判は、人間が人間にとっての最高の存在であるという教説でおわる。したがって、人間がいやしめられ、隷属された存在にしておくようないっさいの諸関係を、くつがえせという、すなわち畜犬税の提案にさいしてフランス人が、あわれな犬よ!おまえたちも人間なみにされようとしているのだぞ!とさけんだ言葉でもっともよくえがきだされている諸関係を、くつがえせという、至上命令をもっておわるのである。」

 確かにここでは、宗教批判から移行して人間主義的に展開されているが、「諸関係」の転覆を!と端的に表現する。なお、ここから、文脈は「物質的な必然性」を背景とする「プロレタリアートの階級への形成」へと繋がるのである。 

 宗教批判を前提とするところの、社会批判は、人間主義を前提とするとするところの、新たな社会性に基礎をおく実践的理論的立場である。『ヘーゲル法哲学批判序説』は、「ドイツにとって宗教の批判は本質的にはもうおわっている。そして宗教の批判は、あらゆる批判の前提である。」という文章からはじまる。ヘーゲル左派の論争が激しく展開されている最中に、すでに、マルクスは、この論争を地上の批判へと拡張することによって、超えようとしていた。ヘーゲルと共に、市民社会を前提にし、そして、単に、哲学としてユートピアを対置することしかしない連中と分岐していく内容をもっていく。

 「宗教に対する闘争は、間接的には、宗教を精神香料としているあの世界にたいする闘争である。」

 「宗教の批判は、したがって宗教を後光とするこの苦界の批判をはらんでいる。」

 宗教批判としての現実的人間主義は、プロレタリアートを主体とする対象認識と同時に自己対象化である革命的立場に定位する。

 「プロレタリアートがこれまでの世界秩序の解体を告知したとしても、それはただ自分自身のあり方の秘密を表明しているにすぎない。なぜなら、プロレタリアートはこの世界秩序の事実上の解体であるからである。プロレタリアートが私有財産の否定を要求したとしても、それはただ、社会がプロレタリアートの原理にまで高めたものを、すなわちプロレタリアートが手をくわえるまでもなくすでに社会の否定的帰結としてプロレタリアートのうちに具現されているものを、社会の原理にまで高めているにすぎない。」

 明快である。このあらたに定位された現実的な〈主体〉は、歴史をもち、物資的必然性をもち、そして、かつ、階級へと形成される過程をもつ、すなわち、現秩序のなかにあって、それを否定してはみだしていく新たな秩序の形成過程をふくむ。それは、逆にいうならば、現秩序に包摂されるということをも含む。

 『経済学哲学草稿』において、この論文を書く立場は、〈私=マルクス〉ではなく、「われわれ」とされる。

「序文」は、書く主体を「私」においている。しかし、第一草稿の労賃の考察を進めながら「さて、われわれはまったく国民経済学者の立場にたち、国民経済学者にしたがって、労働者の理論的および実践的な諸要求を比較してみよう」と、「われわれ」の位置関係を示す。

 第三草稿のなかで、つぎのように詳しく述べている。

 「社会的活動や社会的享受は、けっして直接的に共同体的な活動や直接的に共同体的享受といった形態でだけで実存しているものではない。……

 しかし、私が、科学的等々の活動をする―これは私がめったに他人との直接的共同のもとに遂行できない活動なのであるが―その場合でも、私は人間として活動しているがゆえに、社会的である。私の活動の素材が私に―思想家の活動がそこでおこなわれる言語さえそうである。だから、私が自分からなにかをつくるにしても、それを私は社会のために自分からつくるのであり、しかも社会的存在としてのわたしの意識をもってつくるのである。

 現今では、普遍的意識は現実的生活から一つの抽象であり、そのようなものとして現実的生活に敵対的に対抗しているが、他方、私の普遍的意識は、実在的な共同体、社会的存在を自分の生きた形姿としているものの理論的な形姿であるにすぎない。だから、わたしの普遍的意識の活動もまた―そのようなものとして―社会的存在としての私の理論的な現存なのである。」

 「個人がそれから切りはなされていることに反抗するような共同体こそ、人間の真の共同体であり、人間的本質だからである。」(『論文「プロイセン国王と社会改革―一プロイセン人」にたいする批判的論評』)この新たな共同体の立場こそ、この「われわれ」の質である。

 ちなみに、ヘーゲルの「現象学」における「われわれ」は、全現象過程を、通覧する哲学観察者としての「われわれ」である。

五 フォイエルバッハ的宗教批判の、国民経済学批判への適用

 『経哲』の序文で、国民経済学を批判するにあたって、ヘス、エンゲルスその他の論文を参考にしていることを述べながら、さらに、フォイエルバッハに触れて以下のように述べる。

 「《国民経済学の批判にとりくんできたこれらの著作家のほかに、実証的な批判一般、したがってまた国民経済学にたいするドイツの実証的な批判は、その真の基礎づけを、フォイエルバッハの諸発見に負っている。……。》

 実証的な人間主義的および自然主義的批判は、まさにフォイエルバッハからはじまる。ヘーゲルの『現象学』と『論理学』以来、真の理論的革命を内に含んでいる唯一の著作であるフォイエルバッハの諸著作の影響は、もの静かであるがそれだけまた、より確実、より深刻であり、より広汎、より持続である。」

 このように、「実証的人間主義的、自然主的批判」の意義を国民経済学批判に適用すると同時に、「現象学」、「論理学」の意義を強調する。

 フォイエルバッハの「批判」を国民経済学に貫徹するというここと、このなかから、フォイエルバッハの意義と限界が浮かび上がってくる。それは、労働をどのように位置付けるのかということが、基軸となる。

 「さて、われわれはまったく国民経済学者の立場にたち、国民経済学者に従って、労働者の理論的および実践的な諸要求を比較してみよう。」と出発し、「国民経済学が、プロレタリアを、すなわち資本も地代ももたず、もっぱら労働によって、しかも一面的、抽象的な労働によって生活する人を、ただ労働者としてだけ観察しているということは、おのずから明らかである。……国民経済学は労働者を、その労働していないとき、つまり人間として観察しないで、……。

 さてわれわれは、国民経済学の水準をこえることにしよう。そしてほとんど国民経済学者の言葉を用いて述べてきたこれまでの説明にもとづき、二つの問題に答えてみよう。

 (1)人類の大部分がこのように抽象的な労働へと還元されるということは、人類の発展において、どのような意味をもつのか。」

 この設問自体が、国民経済学を超えている。

 「国民経済学は、私有財産という事実から出発する。だが国民経済学は、われわれに、この事実(註 前文の私有財産の諸結果を示す)を解明してくれない。国民経済学は、私有財産が現実の中でたどってゆく物質的過程を、一般的で抽象的な諸公式でとらえる。その場合これらの公式は、国民経済学にとって法則として通用するのである。国民経済学は、これらの法則を概念的に把握しない。すなわちそれは、これらの法則がどのようにして私有財産の本質から生まれてくるかを確証しないのである。」

 「物質的過程」を「概念的に把握する」ことが大切であると述べる。ここでいう「概念的」にとは、ヘーゲルを批判的に捉え返すなら、単に悟性的認識としてではなく、単に、分析し、総合し、叙述するということではなく、主体的に、かつ、真理を明らかにするという意において掴まねばならない。ここでいう主体的にとは、新たな社会性、あらたな共同性の、形成、発展、展開を実践的理論的主体とするという意味においてである。学知的観察者が、人間と人間の関係が、物と物との関係として錯認識されているとして、〈正しく〉認識するべきであるという、啓蒙者的立場ではない。(たとえば広松的視角)このこと一つとっても、すでにマルクスの理論的立場は、フォイエルバッハの観照の立場との違いが示される。  

 「……事物的世界の価値増大にぴったり比例して、人間世界の価値低下がひどくなる。……

 さらにこの事実は、労働が生産する対象、つまり労働の生産物が、ひとつの疎遠な存在として、生産者から独立した力として、労働に対立するということを表現するものにほかならない。労働の生産物は、対象の中に固定化された、事物化された労働であり、労働の対象化である。労働の実現は労働の対象化である。国民経済的状態のなかでは、労働のこの実現が労働者の現実剥離として現われ、対象化が対象の喪失および対象への隷属として〔対象の〕獲得が疎外として、外化として現れる。」

 「疎外された労働」の規定のまず第一に示される、「労働の生産物からの疎外」のつかみかたは、フォイエルバッハ的な宗教批判を基にしての、しかも、フォイエルバッハを超えた、ヘーゲル弁証法の経済批判への適用である。

 「……すなわち、労働者が骨身を削って働けば働くほど、彼が自分に対立して創造する疎遠な対象的世界がますます強大となり、彼自身が、つまり彼の内容的世界がいよいよ貧しくなり、彼に帰属するものがますます少なくなる、ということである。」

 このことは、宗教と同じ構造であると指摘しながらさらにつぎのように展開する。

 「このことは宗教においても同様である。人間が神により多のものを帰属させればさせるほど、それだけますます人間が自分自身のうちに保持するものは少なくなる。」

 「労働者が、彼の生産物のなかで外化するということは、ただたんに彼の労働が一つの対象に、ある外的な現実存在となるという意味ばかりでなく、また彼の労働が彼の外に、彼から独立して疎遠に現存し、しかもかれに相対する一つの自立的な力になるという意味を、そして彼が対象に付与した生命が、彼に対して敵対的にそして疎遠に対立するという意味をもっているのである。」

 フォイエルバッハは、『キリスト教の本質』において、宗教的疎外について述べている。

 「宗教―少なくともキリスト教―は人間が自分自身の本質に対して取る態度である。然しここでは自分の本質に対する態度は他の本質(存在者)に対する態度として現れる。神的本質とは人間の本質が個々の人間―即ち現実的肉体的な人間―の制限から引き離されて対象化されたものである。言いかえれば神的本質とは、人間の本質が個人から区別されて他の独自の本質(存在者)として直観され尊敬されたものである。それ故に神的本質の凡ての規定は人間の本質の規定である。」

 「人間は自分の本質を対象化し、そして次に再び自己を、かく主体や人格やへ転化されたところの対象化された本質の対象とする。之が宗教の秘密である。人間は自己を思惟し自己にとって対象である。然し人間が自己にとって対象であるのは対象の対象―他の本質の対象―としてなのである。」

 「神とは人間のもっとも主観的で最も固有な本質が分離され且つ選り出されたものである。従って、人間は自分自身からは行為し得ない。従って、凡ての善は神から来る。神が主観的人間的であればある程、人間はそれだけ益々多く自分の主観性と人間性とを疎外する。何故なら神自体は人間の自己が疎外されたものだから。然しそれにもかかわらず人間はかく一旦疎外されたる自己を同時に再び自分の方へ獲得する。」

 先に、フォイエルバッハを超えて、と述べたが、これは、つぎのような意味である。

 フォイエルバッハは、先に引用した『遺されたる箴言』において、次のように、自分の神学批判の実践的意味を述べる。

 「二元性は、分裂は、神学の本質である―分裂は王制の本質である。前者にあっては神と世界との対立を、後者にあっては国家と民衆との対立を見る。前者にあっても後者にあっても、人間自身の本質が別個のものとして人間に対立している―前者にあっては全般的に本質として、後者にあっては現実の、人身的または個別的本質として。」

 「歴史は人類の人間化に他ならない。人間自体にとって最初的で且つ最も近いものは、最後的で且つ最も遠いものなのだ。人間は対象化することによって自己の本質を発揚し、そしてこの本質を、自分の本質と目するより前に、まず、自己から区別され且つ自分以上に位する本質と目するのであって、この道が正しいことは、歴史がザラに実例を提供している。カトリック教にとって神的制度であったものが、プロテスタント教にとって人間の制度物となった。」

 「自由は、人間に対して、人間の全体性、人間のすべての力および素質の適応する無制限の活動範囲を供給すること以外にはない。国家が主体的精神と差別されて客体的真を装わされると、人間は一個の機械に下落させられ、人間性を去奪され、抽象的な量として国家の犠牲に供される。人間が自分で考えているところのもの、自分で想像しているものが、人間に真実にそうであるものの以上におかれる。」

 「思惟の領域においての、神学の人間学への解消は、実践の、生活の領域上においては、王制の共和制への解消である。」

 フォイエルバッハの「人間学」の立場は、従って、「共和制」、ブルジョア社会の立場である。

 マルクスは、すでに宗教における分裂は、地上の分裂に原因があること、そしてブルジョア革命の後の、国家と市民社会への分裂は、市民社会そのものが、分裂していることに根拠をもっていることを明らかにし、市民社会の政治的経済的分裂を解明するとしているのである。

 マルクスは、この労働の生産物の疎外から、生産活動そのものの疎外、類的生活からの疎外、したがって、人間からの疎外即ち資本家との対立関係へと、論を進める。

 これを支える論理は、つぎのようなものである。それは、疎外を、人間と人間の関係において、対象的、現実的なものとして捉えると言う視点である。これは物的な疎外は、人間と人間の関係としてつかまれなければならない、逆に、人間と人間の関係が、物的な疎外の結果であり、又、原因であるという論理である。

 「一般に、人間の類的存在が人間から疎外されているという命題は、ある人間が他の人間から、またこれらの各人が人間的本質から疎外されているということを、意味している。

 人間の疎外、一般に人間が自分自身にたいしてもつ一切の関係は、人間が他の人間にたいしてもつ関係において、はじめて実現され、表現される。」

 「……、人間がかれの労働の生産物、すなわち対象化された彼の労働にたいして、一つの疎遠な、敵対的な、力づよい、彼から独立した対象にたいするようにふるまうとすれば、そのとき彼はこの彼の生産物にたいして、ある他の、彼には疎遠で敵対的で力づよい人間、彼から独立した人間がこの対象の主人であるというふうにふるまっているのである。」

 「人間の自分および自然からの自己疎外はいずれも、人間が自分から区別された他の人間たちにたいするものとして、自分や自然にあたえる関係のうちに現れる。……。実践的な現実的世界では、自己疎外は、ただ他の人間たちにたいする実践的な現実的関係を通じてのみ、現れることができる。」

 ここで展開されている内容は、「経済学批判序説」で述べられる、物と物の関係は、人間と人間との関係であり、また、人間と人間の関係は、物と物との関係として分析されねばならないという視点の原基となる。物象化が同時に物神化であるということ、それが宗教的疎外と区別された、「実践的な現実的世界」における自己疎外なのである。(自己疎外と、物象化を分離し、物象化を、錯認識であって正しい認識を、というような類の主張は、内容を理解する基本的立脚点の抽象であり、したがってなにも探求しない理論である。)

 これまで、やや復習的に、『ユダヤ人問題によせて』から『経哲』の「疎外された労働」までに貫かれてきた論理を追ってきた。

 ここで一つ注意すべきことがある。初期マルクス、特にこの『経哲』の「疎外された労働」から「私有財産と共産主義」をあつかっている個所についての評価について、マルクスはこの当時においては、「疎外」に対して、「本質対置」である、それはフォイエルバッハの影響である、そして、「経済学批判」において克服されたという風な見解がある。はたしてそうであろうか?

 フォイエルバッハは、確かに直接的に感性的に確実なものに立脚する。そして、その認識の立場は、次のように展開されている。

 「真理は,思考のうちにあるのでもなく、知識それ自体のうちにあるのでもない。真理は、ただ人間の生活と本質の全体である。」「人間の本質は、ただ、協同体のうちに、すなわち、人間の人間との統一のうちにのみ含まれている。」(『根本命題』)

 「三位一体は、絶対哲学と宗教の最高の奥義であり中心点であった。しかし、その秘密は、『キリスト教の本質』において歴史的にも哲学的にも証明されたように、協同体的、社会的生活の秘密、言いかえれば、私に対する君の必然性の秘密であり、どんな存在も、それが人間であろうと神であろうと精神であろうと自我であろうと、そしてまたそう呼ばれていようと、ただそれだけでは、真の、完全な、絶対の存在ではなく、真理と完全性は、ただ、本質上等しい諸存在の結合、統一だけであるという真理である。哲学の最高にして究極の原理は、したがって、人間の人間との統一である。すべての本質的関係、すなわち、さまざまな科学の諸原理は、この統一のさまざまな仕方にすぎない。」(前掲書)

 たしかに、これまでの哲学に対して現実的人間の立場が対置されているのであるが、抽象的ではあるが「協同体的、社会的生活」が基礎とされているのである。このことを、肯定的に捉えて発展させること、これがマルクスの一つの課題であったわけで、まさにその視点が、国民経済学批判をとおして展開されているのである。そして、さらに重要なのは、いわゆる「本質対置的」理論展開であるという捉え方が、この経哲において、以下の個所において、端的に否定される。

 「われわれは労働の疎外を、その外化を、一つの事実としてうけとり、そしてこの事実を分析したのであった。そこでわれわれは問おうとする。どのようにして人間は自分の労働を外化し、疎外するようになるのか、と。どのようにしてこの疎外は、人間的発展の本質のうちに基礎づけられるのか。われわれはすでに、私有財産の起源にかんする問題を、人類の発展行程にたいする外化された労働の関係という問題におきかえることによって、この課題を解決するために多くのものを獲得してきた。」(『経哲』)

 「人類の発展行程」にたいする関係の中に「疎外された労働」を解明するという方法から導き出される規定は、その原因にさかのぼり、かつ本質的な解決をも導出するのであって、現象に本質が対置されるという方法ではない。解決を求める主体の解明作業そのものが、主体的理論活動なのであるから、おのずと根本的本質的認識が必要なのである。(この方法は、「第三草稿」の「ヘーゲル弁証法と哲学一般との批判」において明示される。)

 ここまでを要約しよう。宗教批判を土台として地上の批判を展開すること、そしてこれまでのヘーゲル左派の諸論争が、市民社会の立場にあること、これを労働の分析を通して、新たな社会性の形成を根拠にして、人間性の回復、実現を現実の歴史過程の中に掴むこと、このことにおいていっさいのユートピア主義を超えた共産主義を基礎付けたのである。

六 ヘーゲル弁証法の批判的再生=「積極的人間主義」への道

 すでに、政治批判、経済批判の展開をとおして築き上げてきた理論的地平を、方法論的に整理し、ヘーゲル左派を対象化し、フォイエルバッハの理論の限界を示しつつ、そしてマルクス自身のヘーゲル弁証法の転倒において切り開かれる方法を明示的に整理する作業が、「ヘーゲル弁証法とヘーゲル哲学一般の批判」である。

 フォイエルバッハは、ヘーゲル哲学について、シェリングの「絶対同一哲学」の延長であるという掴み方が強く、なぜならば絶対者批判の観点からみるならば同種の哲学と捉えられるからであるが、ヘーゲルの弁証法についての関心が薄い。しかし、その弁証法についてその特徴を正確に捉えている。

 『ヘーゲル哲学の批判』において、ヘーゲル哲学の位置を簡潔に次のように述べる。

 「フィヒテはカント哲学を真理として前提した。かれは、それを学へ高め、カントにおいてばらばらになっていたものを結び付け、それらを一つの共通な原理から導きだすこと以上になにもしようとしなかた。シェリングも同様に、一方ではフィヒテ哲学を確実な心理として前提したが、他方ではかれはフィヒテと対立して、スピノザの再興者である。ヘーゲルはシェリングによって媒介されたフィヒテである。ヘーゲルはシェリングの絶対者に反論した。かれは、この絶対者のうちに反省、悟性、否定性の契機が欠けていることを認識した。かれは、絶対同一の胎内を精神化し、規定し、それを概念(フィヒテの自我)の種をもって受胎させた。しかし、かれはやはり絶対者を真理として前提していた。かれは、絶対同一性の存在や客観的実在性を疑わず、シェリング哲学を本質上真の哲学として前提し、ただ形式の欠如という点を非難したにすぎない。だから、ヘーゲルのシェリングに対する関係は、フィヒテのカントに対するそれと同じである。」

 この絶対者は証明を必要としているのであるが、しかし「絶対者の証明は――その過程がどんなに学問的に厳密であろうと――その本質、原理から言えば、たんに形式的な意義しかもっていない。」と、「過程」は「形式的なものにすぎない」とされ、そこで終わっている。

 「絶対理念は、思考する者としてのヘーゲルにとっては絶対的確信であり、書く人としてのヘーゲルにとっては形式的な不確信であった。問題はすでに解決ずみと考え、要求をもたず、叙述を追い越している思考者と、思考者にとって確実なものを形式的に不確実なものとして定立し、客観化するところの要求をもち、継起的に進む筆者とのあいだの矛盾、これが絶対理念の過程である。」

 「理念は、現実的に他のもの――このような他者は、ただ経験的=具体的な知性的直観でしかありえないであろうが――によって自分を生み出し、証明するもではなく、形式的な、見せかけの対立物から自分を生み出すのである。」

このように、このヘーゲルの絶対理念の媒介は形式的なものとされるのであるが、さらに続けてその意味を特徴づけている。

 「ヘーゲル哲学は、合理的神秘主義である。だからそれは全く独特のものであり、したがって神秘的=思弁的な心の人にとっても、合理的な頭の人にとっても、魅力的であると同時に、嫌悪すべきものである。前者にとっては、概念がかれらを失望させ、また暗い表象の神秘的魅力を破壊するから、神秘的なものに合理的なものを結びつけることががまんできない矛盾であり、後者にとっては、合理的要素に神秘的要素を結びつけることが気にいらないのである。」

 フォイエルバッハは、ヘーゲル弁証法の二重性をこのように要約している。このつかみかたはぎりぎりヘーゲル弁証法の内容にせまったものであるがそれ以上ではなく、「形式的」であるとして捨て去っているのであるが、マルクスのヘーゲル弁証法の捉えかえしと通じているものである。

 マルクスは、フォイエルバッハを評価し、そのなかで、つぎの点を強調している。

「(1)哲学は、……。

(2) 真の唯物論と実在的な科学とを基礎づけたこと。しかもこれをフォイエルバッハは「人間の人間にたいする」社会的な関係を同様に理論の根本原理とすることによっておこなったのである。

(3)彼は、……。」

 先にも示したように、すでにマルクスは、この評価の上にたってなおかつ超えている。これを、マルクスによるフォイエルバッハの「改釈がえ」であるなどという解釈もあるようであるが、マルクスのこの時点における方法を内容的に把握していない場合そのような印象をもつのかもしれない。

 フォイエルバッハが、「否定の否定を、もっぱら哲学の自己矛盾としてのみ把握している。」と批判した上で、ヘーゲル弁証法の批判に入るのであるが、すでに先に述べたように、宗教批判と国家と市民社会の批判をとおして、ヘーゲルとの格闘は内容的にすすんできたのだということ、そのうえに展開されているということを念頭におかねばならない。当然にも、この批判から突然に「歴史的・過程的・関係的」把握が生まれたのではないということである。

@「だが、ヘーゲルは、否定の否定を、――そのうちに存している肯定的な関係からいえば、真実の唯一の肯定的なものとしてとらえ、――そのうちに存している否定的な関係からいえば、一切の存在の唯一の真なる行為および自己確証行為としてとらえたのであるが、そうすることによって、彼は、たんに抽象的、論理的、思弁的な表現にすぎなかったが、歴史の運動にたいする表現を見つけだしたのであった。」

A「そして、あらゆる自然的なものが生成してこなければならないのと同様に、人間もまた自分の生成行為、歴史をもっているが、しかしこの歴史は人間にとっては一つの意識された生成行為であり、またそれゆえに意識をともなう生成行為として、自己を止揚してゆく生成行為なのである。歴史は真の自然史である。」

B「したがってヘーゲルは、自己自身に関係させられた否定の肯定的な意味を――またしても疎外された仕方においてであるが――とらえることによって、人間の自己疎外、本質外化、対象剥離、現実性剥奪を、自己獲得、本質変化、対象化、現実化としてとらえている。《要するに、ヘーゲルは――抽象の内部で――労働を人間の自己産出行為としてとらえ、疎遠な本質としての自己に対するふるまいを、一つの疎遠な本質としての人間の活動を、生成しつつある類的意識および類的生命としてとらえている。》」

 人間が対象的感性的自然的存在であること、且つ人間的な自然存在=類的存在であること、このことが前提となって、ヘーゲルの批判が成立しているのであるが、このフォイエルバッハと通じる地平の上に、しかし、フォイエルバッハを超えて、感性的ということは受苦的であるということ、人間は、対象を自然的諸対象から人間的諸対象へと変化させねばならないことから必然的に生成の歴史過程をもつこと、この対象的生命活動が労働なのだということ、さらに、人間的本質の外化が疎外されたものであることを克服しながらの類的歴史過程を必然とすること、この疎外の克服過程こそが「真の人間的な現実にいたる道」なのだとするこの視点から、ヘーゲルの弁証法の特徴を照らし出したのである。

 マルクスは、国民経済学批判を媒介にして、生産、労働の本質的意味をつかむのであるが、このことにより現実的歴史過程を人間が人間となる全発展過程としてとらえることができるのである。たしかに、ドイツの現状の中に悲惨、人民の苦しみをとらえていないヘーゲル左派はいなかったし、また、プルードンのように「労働を擁護し私有財産に反対する」(『経哲』)主張もあった。しかし、資本主義的生産過程そのものが、すなわち賃労働と資本の関係そのものが両極ながら廃棄されねばならないという結論は、あたらしいものであった。

 この視点は、当時のヘーゲル左派の潮流のなかには無いマルクス独特の歴史論理である。このことを理解しない主張は、ややもするとこの時点のマルクスの理論内容をフォイエルバッハ主義的であるとだらしなく勝手に決め付ける傾向となる。フォイエルバッハの論理と、ヘーゲルの論理と、マルクスの論理の相互関係は、決定的にこの一点に照らし出される。このことは重要なのでさらに注意深くみてみることにする。

マルクスは、ヘーゲル『現象学』の二重の誤りとして述べるなかで

 「第一の誤りは、……。人間的本質がみずからを非人間的に、自分との対立において対象化するということではなくて、人間的本質が、抽象的思惟からの区別において。またそれとの対立において、自らを対象化するということが、措定された、そして止揚されるべき疎外の本質であると見なされるのである。」

 「第二に、対象的世界を人間のために返還請求すること――たとえば、感性的意識は、けっして抽象的に感性的意識ではなく、人間的に感性的な意識であるとか、また宗教や富その他は、人間的な対象化の、外へ製作物として産出された人間的な本質諸力の、疎外された現実にすぎないのであって、それゆえ真の人間的な現実にいたる道にすぎないのだということの認識――このような獲得、あるいはこのような過程への洞察は、ヘーゲルにおいては、感性、宗教、国家権力等々が精神的な存在であるというかたちで現れる。」

 「疎外された対象的本質をわがものとする獲得、あるいは疎外――それはどうでもよいような疎遠性から現実的な敵対的疎外にまで進まざるをえないのだが、――の規定のもとでの対象化の止揚は、ヘーゲルにとっては、同時に、あるいはむしろ主として、対象性を止揚するという意味をもっている。というのは、自己意識にとって疎外における障害となるのは、対象の特定の性質ではなくて、その対象的な性質だからである。」

 ヘーゲルの自然と理念の関係についての「外在性」について、「外在性はここでは、自己を発現して光に、感性的人間に開示された感性として理解されるべきではない。この外在性は、ここでは外化の意味において、あってはならない欠陥の意味において受けとられるべきでなのである。というのは、真なるものは依然として理念だからである。自然は理念の他在の形式であるにすぎない。」このように、叙述の順序としては、自然の外在性=欠陥の止揚として回帰した同一性となったものが概念であるとされているが、しかし、すでに潜勢においては止揚された本質としてあらかじめ措定されているというまやかしなのであるが、ヘーゲルの「外化」の意味が鋭く述べられている。この「外化」されたものが、理念を真として、欠陥あるものとして止揚されるという循環過程を持つのであるが、そのうえでなおその外化の止揚が「それの他在そのもののうちにあって自己のもとにある」されることによって、対象そのものが虚無性として否定されて自己確証とされるのである。

 「ヘーゲルにおいては、否定の否定は、まさに仮象本質を否定することによる真の本質の確証ではなくて、仮象本質、または自己から疎外された本質を、それの否認において、確証することである。すなわちこの仮象本質を、人間の外に住みそして人間から独立している対象的本質としては否認し、それを主体へと転化することである。」

 このヘーゲルの「いつわりの実証主義」「見せかけだけの批判主義」は、すでに、『国法論批判』のなかで、ヘーゲル哲学の「無批判」は、その秘法であると指摘されている。

 「これは一つの古い世界観を或る新しい世界観の意味に解釈する無批判的な、まやかしのやり方なのであって、それによって古い世界観は出来そこないのまぜものようなものにしかならず、ここでは姿は意義を偽り、意義は姿を偽るのであって、姿が姿どおりの意義になり、現実的な姿になることもなければ、また意義が意義どおりの姿になり、現実的な意義になることもない。この無批判、このまやかしは現代の国家制度(なかんずく身分代議制度)の秘密であるとともに、またヘーゲル哲学、ことに法および宗教哲学の秘法でもある。」(『国法論批判』)

 そして、『経哲』においてはこの「秘法」は、マルクスによって、明確な形でかつ、分かり易く批判される。

 「もしわたしが宗教を、外化された人間の自己意識であると知るならば、したがってそのとき私は宗教としての宗教において私の自己意識が確証されているのではなく、私の外化された自己意識がそこで確証されているのだということを知るのである。したがってその場合私は、自己自身につまり自分の本質に属している私の自己意識が、宗教においてではなく、むしろ破棄され止揚された宗教において確証されているのを知るのである。」

 「仮象本質の否認と再興」ではなく、その「否定」こそが、自己確証である。マルクスはこう断言する。

 このようなヘーゲル弁証法のもっている思弁的性格、いつわりの実証主義にもかかわらず、その弁証法のもつ積極的意義は、〈「現実的人間」の「歴史過程」〉に基礎づけられることにより、現実的理論として生みなおされる。マルクスは、ヘーゲルの弁証法の生みなおしの中から、「積極的人間主義」を導きだす。

 「いまやヘーゲルの弁証法の積極的は諸契機――疎外の規定の内部での――をとらえねばならない。

 外在態を自己のうちに取りもどす対象的な運動としての止揚。――《これは対象的本質をその疎外の止揚によって獲得するということについての、疎外の内部で表現された洞察であり、人間の現実的な対象化への疎外された洞察である。すなわち、人間が対象的世界の疎外された規定を破棄し、対象的本質を獲得するということへの疎外された洞察である。……》」

 「神の止揚としての無神論=理論的人間主義」「私有財産の止揚としての共産主義=現実的人間主義」にたいして、マルクス自身の「この媒介の止揚――といってもこの媒介は一つの必然的な前提なのであるが――によってはじめて、積極的に自己自身からはじめる人間主義、積極的人間主義が生成するのである。」

 マルクスの理論の基礎、理論の主体はなにかということがここで問題である。

 「思惟もまた、社会や世界や自然のなかで目、耳、等々をそなえて生きている人間的で自然的な主体としての人間の本質発現」であると、「へーゲルが思惟を主体からきりはなした」ことについて述べている。

 先に述べたように、外見的には個人的個人の理論活動であっても、その内容において社会的である理論活動は、特定の社会を、社会性を前提としている。

 『経哲』において、明らかにされた「積極的人間主義」におけるその主体はなにかということは、これまでの論述においてすでに明らかなように、現実的歴史的疎外(疎外として感受する現実人間達の現存があってはじめて疎外なのであるが)を、欠陥苦痛として克服してゆかんとする新たな人間的秩序、新たな社会性こそが主体なのである。それは、将来の想定されたものではなく、現下の進行しつつある「隠れた内乱」、プロレタリアートの団結の只中にうみだされつつある、市民社会に属しつつそれをはみ出してゆく新たな社会性なのである。

 ここまでに明らかにされたマルクスの理論地平は、確かに歴史過程がその政治・社会・経済過程がいまだ抽象的本質としてしか、すなわち具体的現実的に展開されていないが、ヘーゲル弁証法の批判的生成において独自に切り開かれたものである。このことを見落とすと、マルクスは、ただ単に、フォイエルバッハやエンゲルスやヘスやシュテルナーの影響によってのみ、外的影響によってのみ築き上げられる理論家のように思い描かれたりするのである。しかしそれとて、新たな社会性に基礎づけられない「マルクス主義解釈」の個人責任を問えないところの不可避的な〈没主体的〉結果なのではあるが。

七 フォイエルバッハとマルクスのヘーゲル哲学理解の相違点

 フォイエルバッハをマルクスが越えたとわれわれもまた主張する。マルクスのフォイエルバッハ批判に追随するだけの、内容の無い空文句としてこれを主張する人々が多いが、そのような人は、また、レーニンの『哲学ノート』の内容を、これまた、全く矛盾するにもかかわらず、正しいと主張する人々である。このようだらしない理論以前の理論は、今日においては力を失いつつあるが、しかし依然として反省が見られない。このような傾向は、日本の近代の西洋哲学が「新カント派」(ヘーゲル哲学を媒介としてカント哲学を理解する)の影響のもとにあったということから照らし出されることであるが、これはさらにレーニン主義のフイルターを通しての「レーニン主義的新カント派」となることで固定化されることになったという事情の産物ではあるのだが。そして、革マルの黒田は「レーニン主義的新ヘーゲル派」ともいうべきまがいものをでっち上げたのである。

 なぜ両者に大きな違いが発生していったのか、この問いには、確かに、マルクスの政治社会過程にたいする現状認識、批判が存在することを前提にする必要があるし、またフォイエルバッハは、当時は「合理主義者」以上ではなかったとおもわれる。両者にとって、「疎外」は、前者にとっては、現実的な生活上の宗教・政治・社会・経済的生活過程の疎外が、後者にとっては宗教上の疎外があつかわれているということがあるのではあるが次の点を看過できない。

 先にも引用したのであるが、フォイエルバッハのヘーゲルの哲学史的位置付けは、シェリングの同一性絶対哲学の変化したものとして規定されている。

 『哲学改革のための暫定的命題』において、

 「スピノザは現代の思弁哲学の本来の創始者であり、シェリングはその再興者、ヘーゲルはその完成者である。」

 「同一哲学とスピノザの哲学とのちがいは、同一哲学が、後者の実体という生命のない、鈍重な存在を、観念論の精気で活気づけている点にあるにすぎない。特にヘーゲルは自己活動、自己区別の力、自己意識を実体の属性とした。ヘーゲルの神についての意識は、神の自己意識である』とする逆説的な命題は、『延長あるいは物質は実体の一属性である』というスピノザの逆説的な命題と同じ基礎のうえにたっていて、それは、自己意識が実体あるいは神の属性の一つであり、神は自我であるという以外の意味をもたない。」

 この考えを裏打ちするように、『ヘーゲル哲学の批判』において、シェリング哲学を規定して、以下のように述べている。

 「ヘーゲルは、かれの哲学的思考のそもそもの始めから、絶対的同一性の前提からはじめたのである。絶対的同一性の理念あるいは絶対的一般の理念は、かれにとってはいきなり客観的な真理であり、しかも、それはたんにある一つの真理ではなく、絶対的な真理、絶対的理念そのものであった。すなわち、もはや疑うことのできない、あらゆる批判と懐疑を超越したという意味で、絶対的な理念であった。しかし、絶対者の理念は、その積極的な意義からみれば、カント=フィヒテ哲学の主観性の理念に対立する客観性の理念にすぎなかった。だから、シェリング哲学は、その信奉者たちが考えているような『絶対的な』哲学としてではなく、批判哲学の対立物として理解されねばならない。」この註として、「ヘーゲル哲学は、形式的にはフィヒテ主義を受け入れていたけれども、しかしその内容からみて、カント主義およびフィヒテ主義に対立している。このことを認める場合にのみ、われわれはヘーゲル哲学をもまた、正しく認識し、その真価をみとめ、評価することができる。」と念を押している。

 ヘーゲルにあっては、神的なもの、絶対的なものは、自己意識としてのみ展開されている。スピノザの神はそのまま自然なのであって、いわば「汎神論」的展開である。

 シェリングは、たしかにフィヒテ哲学から出発しながら、絶対自我=神とする時に、主体・客体の上においてはじめて成立する意識は、主観・客観をすでに超えている絶対者としての神の規定に反するとし、意識が無いということは人格性が無いということだと論理において、スピノザへ向かう。

 これにたいして、ヘーゲルは「現象学」において、「絶対者は主体である」とし、真なるものは実体としてでなく主体として把握し表現しなければならないとしている。すなわち、区別も運動も無い単純態のような実体が絶対者なのではないとしている。「生ける実体とは存在であっても、真実には主体であるところの存在、或いは言いかえると、真実に現実であるところの存在であるが、現実的であるのは、ただ実体が自己自身を定立する運動である限りにおいてのみのことであり、言いかえると己の他となりながらそうなることを己れ自身と媒介し調停する運動であるかぎりにおいてのみのことである。」

 マルクスは、このヘーゲルの運動し己を知る「主体」を、『経哲』において人間の生命過程の、疎外された神的過程として批判的につかんだのである。

 「……、ヘーゲルにとっては、自己外化および自己疎外としての自己産出、自己対象化のあの運動は、絶対的な、それゆえ究極的な、人間生命の発現、自己自身を目的とし、そして自己のうちに安じており、自分の本質に到達した人間生命の発現なのである。

 それだから弁証法としてのその抽象的形式におけるこの運動が、真に人間的な生命とみなされる。」

 この過程は、ヘーゲルにあっては、神的過程となる。つづけて、「しかもなお、それは人間的な生命の一つの抽象、一つの疎外なのであるから、それは神的な過程、したがって人間の神的な過程――人間から区別されている抽象的な、純粋な、絶対的な人間の本質が、自ら通過する一過程とみなされるのである。」

 そして、この過程は担い手を必要とする。

 「この過程は一つの担い手、一つの主体をもたねばならない。しかし主体は成果としてはじめて生成してくる。それゆえ、こうした成果、すなわち自己を絶対的な自己意識と知っている主体は、神であり、絶対精神であり、自己を知りつつ実証する理念であることになる。」

 「客体を越えて包み込んでいる主体性を、すなわち自己を外化しそして外在態から自己へと還帰するが、しかしそのさい同時に外在態を自己のうちに取りもどす主体としての絶対的な主体を、しかしまたそういう過程としての主体をもつのである。」

 ヘーゲルの「主体」は、このような「神秘的主体」「客体を越えて包み込んでいる主体」と規定されている。これは、あきらかにスピノザ的実体とは異なるものである。

 マルクスは、『聖家族』のなかで、「ヘーゲルの絶対精神」は、スピノザの実体、フィヒテの自己意識との統一であるとし、それは、形而上学的に改作された現実の人間、現実の人類であると述べている。スピノザはヘーゲルの一つの要素ではあるが、フィヒテとの統一においてヘーゲル自体の「主体」が作りだされているのである。

 フォイエルバッハは、ヘーゲルをスピノザ主義的であると規定している。したがって、ヘーゲルの抽象的過程は、絶対的同一性についての、自己を証明するための余計なものとしてしかうけとめることができなかった。したがって、「現象学」のなかから、批判的内容をつかみ出す事ができなかったのである。フォイエルバッハはたしかに優れた批判者ではあったが、ヘーゲル哲学を一面的に批判することの結果は、当然にもその止揚とはならない。

 マルクスは『ドイツイデオロギー』のはじめに、「青年ヘーゲル派は万事にことさらに宗教的諸表象をおしつけたうえで、また万事を神学的だと断定したうえ批判した。青年ヘーゲル派は、現存の世界における宗教、諸概念、普遍的なものの支配を信ずるという点では旧ヘーゲル派と一致する。ただ前者がその支配を無法だと反対するに対して、後者が合法だとたたえるだけである。」と述べ、彼らは「道徳的要請」のみを主張する誤りであると断言する。

八 「歴史的必然性」の概念――『聖家族』

 『経哲』につづいて、更に青年ヘーゲル派に対する批判を深めるのであるが、ブルーノ・バウアー批判は、同時に「主意主義的立場主義」に対する批判でもあり、したがって、『ドイツイデオロギー』の冒頭の「イデオローグ批判」に引き続き展開される伏線となっている。これは同時に、その批判的な内容として、歴史的な必然性、しかも、プロレタリアートにとっての歴史的必然性のついての洞察でもある。そのかぎりにおいて、すでに、繰り返し明示しているように、フォイエルバッハの「主述の転倒」の「主」の内容がたかめられることによって、すなわち、現実的歴史的な実践的人間活動として掴み返されることによって、ヘーゲルを全的に克服した地平にすでに立っているのである。

 青年ヘーゲル派がもがいた空間が、いかなるものであるかを公然と白日のもとに曝したのは、次のようなヘーゲル把握であった。

 「実体と自己意識にかんするシュトラウスとバウアーの闘争は、ヘーゲル的思弁の内部での闘争である。ヘーゲルのうちには三つの要素がある。すなわちスピノザの実体と、フィヒテの自己意識と、この両者の必然的な矛盾に満ちたヘーゲルの統一すなわち絶対精神である。第一の要素は人間から分離されて形而上学的に改作された自然であり、第二のものは、自然から分離されて形而上学的に改作された精神であり、第三のものは、これら両者の形而上学的に改作された統一であり、現実の人間と現実の人類である。」

 すなわち、スピノザ的実体、フィヒテ的自己意識、ヘーゲルの主体が端的に示される。

 ここで、若干立ち止まって、実体と主体の関係についての捉え方についてはっきりさせておく必要がある。「現象学」のはじめに、

「二 精神の現象学

 〔一〕絶対者は主体であること、そして主体とはなんであるのか。

私の見解は、ただ体系そのものの叙述によってのみ正当化させられざるをえないものであるが、この見解によると、一切を左右する要点は」につづいて、「真なるものをただ単に実体として把握し且つ表現するだけでなく、全く同様に主体としても把握し表現するということである。」と翻訳されている個所がある。

 別の訳でも「真理を単に実体としてとらえるだけではなく、主体としてもとらえ表現するか否かにかかっている。」とされている。《das Wahre nicht als Substant,sond ern eben so sehr als Subjekt aufzufassen und auszu-drücken 》の訳としては、「実体としてでなく、主体としてとらえるべきであり、主体のほうがかえて実体をも表現しうるのだ」と言う意味に掴まねばならないと考える。(註 ドイツのヘーゲル学者ゲルハルト・シュミトの見解を渡辺二郎が紹介している見解を参考とした。)

 このようにとらえることによって、上記の三要素が正確に把握される。

 この点が重要である。スピノザの実体のもついわば「汎神論」的性格の批判を、ヘーゲルに投げかけることによって、ヘーゲル批判をしたつもりになって、その上で、マルクスを解釈するという傾向はこれまでよくみられたものである。そうするともう一度、誤って主観主義者や自我主義者が生み出される。観念的な偽者のマルクス主義の発生原因である。

 上記の点を示すために、若干スペースをとるが、簡潔にこの点を扱うことにする。

 『大論理学』「第三部」の冒頭の「概念一般について」は、ヘーゲルの「概念」の何たるかを明瞭に述べている。

 「有と本質を考察する客観的論理学は本来、概念の発生的叙述である。これをもう少し詳しく云えば、実体はすでに実在的な本質であり、あるいは有と合して現実性の中に這入ったかぎりにおける本質である。

従って概念は実体をその前提としてもつのであり、概念が顕現したものであるのに対して、実体はその即自的なものである。因果性と交互作用を通じての実体の弁証法的運動は、それ故に概念の直接的な発生であり、これによって概念の生成の叙述がなされる。」

 「実体は絶対的な力として、或いは自己関係的な否定性として、自分を区別して一個の相関関係とするが、この相関関係のなかでは、あの最初は全く単純であった二契機が二つの実体となり、二つの根源的前提となっている。――この実体の規定的な相関関係は一方の受動的実体(即ち無力で自分を自ら措定することなく、単に根源的な被措定有であるような単純な即自有の根源性)と、自己関係的な否定性であり、そういうものとして自分を他者として措定し、そうしてこの他者に関係するものである能動的実体との関係である。」

 このように、実体を二つの実体とする。これは、シェリングの実体のつかみかたと異なる。フィヒテの「自我と非我」を「精神と自然」と掴み直し、自然と精神の根源的同一性を主張することでその分離対立を克服できるとした。「私は、絶対的な理性、すなわち、主観的なものと客観的なものとのまったき無差別として考えられるかぎりでの理性を、理性と名づける。」として「同一哲学」を打ち出したのである。

これにたいして、ヘーゲルは、矛盾や区別、欠陥がどのようにしてでてくるのかをあきらかにできないとして、その同一哲学を批判する。

 実体を二つに分離して生成したものとしての新たな実体を、「実体の完成」であるとし、「しかし、この完成はもはや実体そのものではなくて、より高次のものであり、概念であり、主体(Subjekt)である。」

 この「主体」こそ、ヘーゲルの核心点である。

 『聖家族』の第五章の「二 思弁的構成の秘密」は、マルクスがヘーゲルのヘーゲルたる所以のところを分かり易く説明する個所として有名である。しかし、多くの場合、この論述の意味を十分に理解しているとは言い難い。それは二つの理由がある。

 その一つは、先にあげた「ヘーゲル的主体」を「スピノザ的実体」との相違において鮮明につかむことに失敗しているか、不十分であること、さらに、ここが大切なのであるが、その一つは、すでに述べた「新カント派」的な「知性」のままにその尺度において「主語と述語」関係を理解し、そのように読み込んでしまう傾向があることである。それは、背中あわせの一つのことである。すなわち、もう一度ヘーゲル的観念性の中に舞い戻るような誤れる「ヘーゲル批判」に転落するのである。

 この個所は、前後の二つの論旨によって展開されている。

前半は、実存する規定されてある個別から、その本質が抽象される過程、後半は、この抽象が規定された実在へといたる過程である。この前半については、「特殊の現実の果実」からの「果実なるもの」の抽象過程である。この抽象過程は、あらかじめ行なわれて済んでしまっていることなのであるが、ヘーゲル的には、普遍的規定のなかに、個別的特殊的規定が含まれている抽象なのである。普遍性の契機のみによる抽象は、形式的で外的な抽象であるとされる。この抽象から、「果実なるのも」から、現実の個々のリンゴ、等々への道が問題である。

 マルクスは、「現実の果実から、抽象的表象たる『果実なるもの』をつくりだすのは、いともやさしいとしても、抽象的表象たる『果実なるもの』から、現実の果実をつくりだすのは、たいへんむずかしい。」と述べ、「それどころか、私が抽象を捨てない限り、抽象から抽象の反対にいくことは、不可能である。だから思弁哲学者は『果物』なるものという抽象を、あらためてすてるが、それを思弁的・神秘的なしかたで、つまりこれをすてないようにみせかけて、すてるのである。」

 この「すてないようにみせかけて、すてる」やりかたは、『大論理学』「第三巻第一篇第一章C個別〔1、個別性の本性〕〔a 普遍〕に詳しく展開されている。

 「普遍は、それ自身において絶対的媒介であり、ただ絶対的否定としてのみ自己関係であるが故に、向自的である。だが、この止揚が外面的な働きであって、その点で規定性の除去であるかぎり、普遍は抽象的普遍である。……――抽象は生命、精神、神、並びに純粋概念を把握することができない。何故かといえば、抽象はその諸々の所産から個別性を、即ち個性と人格性との原理を捨て去り、生命も精神もなく、また色も中味も無い普遍性に達するにすぎないからである。」ここまでは、まっすぐ来るのであるが、反転して

 「ところが、概念の統一は分かち得ないものであって、それ故にこれらの抽象の所産も、それが個別性を捨て去ると言われながら、それ自身むしろ個別的なものである。抽象は具体的なものを普遍性に高めるが、しかし普遍を規定的な普遍としてのみ把握するのであるから、まさにこの普遍こそ、自分に関係する規定性になったところの個別性にほかならない。……抽象的なものそのものが個別的内容と抽象的普遍性の統一であり、従って具体的なものであって、いわゆる抽象的なものの反対のものであることがわかる。」

 最後に「具体的なもの」が「抽象的なものそのもの」と等しいとされるのである。

 概念なるものが、絶対的否定性であるということから、概念は自分を分離し、自分を自分自身の他者として措定する。この自己と他者としての自己との関係が判断される。統一が生み出されると推論となり、完全性をもつ。そして概念の主観性は客観性に移行してゆく。この全過程が、この「すてないようにして、すてる」やりかたなのである。

 マルクスは、スピノザ的な実体の立場と区別して、ヘーゲル的な主体の論理として明確に述べる。

 「だから、実体の立場でのように、ナシが『果実なるもの』であり、リンゴが『果実なるもの』であり、ハタンキョウが『果実なるもの』であるとは、もはやいってはならないので、むしろ、『果実なるもの』が、ナシとしてみずからを定立し、『果実なるもの』がリンゴとしてみずからを定立し、『果実なるもの』がハタンキョウとしてみずからを定立する、というべきであり、リンゴ、ナシ、ハタンキョウを、相互からわかつ区別は、まさに『果実なるもの』の自己区別であり、この区別が特殊の諸果実を、『果実なるもの』の生活過程のうちの区別された分肢にするのである。」

 「いうまでもなく、思弁哲学が、このようにひきつづいて創造行為を成就するのは、ただ彼が、リンゴやナシなどの、周知の性質を――それはこれらを実際にながめれば見いだされるものだが――彼がつくりだした規定だといいくるめることによってであり、また彼が、抽象的悟性だけが創造できるもの、すなわち、抽象的悟性公式に、現実の名称をあたえることによってであり、最後に彼が、それをつうじて彼がリンゴの表象からナシの表象に移行してゆく彼自身の活動を、絶対主体の、すなわち『果実なるもの』の、自己活動だと公言することによってである。」

 「この操作を、思弁的言いまわしでは、実体を主体として、内的過程として、絶対的人格として理解するとよぶ。そして、この理解がヘーゲル的方法の本質的性格をなすのである。」

 ヘーゲルに即してこの展開を追うならばつぎのようになる。

『エンチュクロペディ』の「第三部概念論A主観的概念c推論」において

 「そして絶対者の定義は今や、絶対者は推論である、というふうに言えることになり、この規定を命題にして言い表せば『すべては推論である』ということになる。すべては概念である。そして概念の定在は概念の諸契機の区別である。つまり、概念の普遍的本性が特殊性をとおして自己に外的現実性を与え、このことによって、また、否定的な自己―内―反照として、自己を個別者たらしめる。――これを逆に言うと、現実的なものは一個別者であり、これが特殊性をとおして自己を普遍性へ高め、自己自身と同一たらしめるのである。――現実的なものは一つのものであるが、しかしまた同時にそれは概念諸契機の相互分離でもある。そして推論とは、この概念諸契機を媒介する円環であって、この円環をとおして現実的なものは一つのものとして自らを措定するのである。」(一八二)

 「諸契機のこの観念性ということの中に、推理作用は、それが経めぐる諸規定態の否定を本質的に内包するという規定を含んでおり、したがってまた、媒介を止揚することによって一つのの媒介であるという規定、そして、主語を他者と連結することでなくて主語を止揚された他者と、つまり自分自身と連結することであるという規定を生む。」(一九二)

 「概念のこの実現、この実現において、普遍者は自己へと還帰したこのような一つの統体であり、この統体の諸区別もおなじく統体であり、この統体は媒介を止揚することをとおして自己を直接的統一として規定しているのであるが、この概念の実現、――これが客観である。」(一九三)

 引用が長くなったが、このような「思弁」の過程において、「対象」(表象)が現実的な実存在として生み出されることになる。

 主語が述語に向かう過程と、述語が主語に向かう過程が判断、推論をとおして統一される、または、同一であるということに至ることによって、即自的であった主語と述語の関係が向自化され、媒介そのものも止揚されて直接的に統一されて、客観となる。この客観は、「直接的な有」となる。この「客観」が「目的」によって、「主観」と統一されて「理念」となり、「生命」となり、「類」となる。

 この長い過程そのものが、「抽象」から